プロフィール




地域 新潟
性別 男性
誕生日 1/15
趣味 音楽


その他の趣味 : 将棋(肩書きだけは、一応アマチュア六段) 法律かじり  ほか
スポーツ : ボウリング


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 趣味で、独学で楽しく気楽に作曲・編曲をやっており、曲種は吹奏楽曲が多いです。
 以前、地元のアマチュア吹奏楽団、リコーダーアンサンブルなどで活動しており、現在は県のリコーダー教育研究会で活動しています。
 音楽が趣味の方、その他どなたでも、お気軽にメールや書き込み下さい。
 作曲・編曲作品は、下に記載のものは主要作品で、リストは「作曲・編曲 作品紹介」のページにあります。

<主要作曲作品>
・十日町市立南中学校生徒会歌 (昭和53年 在学時)
・川治公民館音頭 (平成4年 十日町市より委嘱)
・吹奏楽コンクール課題曲作曲へ応募  (平成2年より毎年 うち4回コンデンス・スコア=ピアノ譜の審査通過、平成13年度はメインページのとおり最終審査にて佳作受賞)
   ほか 多数

<主要編曲作品>
・十日町小唄行進曲 (昭和63年 「新潟県消防大会」の十日町市での開催にて初演)
・リコーダーアンサンブル曲 「日本の四季」より
 (平成5年度新潟県リコーダーコンテストにて演奏、県代表・全日本リコーダーコンテストへ出場)
   ほか 多数

<いままでの音楽団体>
・小学校リード合奏団 (ティンパニ、大太鼓、オルガン、アコーディオン、ハーモニカ ほか)
・中学校、高校 吹奏楽部 (トロンボーン)
・十日町市民吹奏楽団 (トロンボーン 昭和62年〜平成10年に在団)
・十日町リコーダーアンサンブル メンバー (平成7年〜19年)

<現在の所属音楽団体>
・新潟県リコーダー教育研究会 会員 (平成5年より) 平成13年より理事に就任






〜 私の音楽歴 〜


 私は、小さな頃からもしかしたら音楽の感性があったのかもしれず、幼稚園のころの文集の「一番楽しかったこと」の欄に、「器楽合奏」と書かれていました。

 小学校に入り、言語障害がはっきりしてきたので、当時の担任の先生は、リズム感を身につければ効果が出るのではないかということで、特設の器楽部(リード合奏)に入ることを勧め、ティンパニー、大太鼓、オルガン、アコーディオン、ハーモニカなどをやりました。当時の器楽部の顧問の先生がご自分で編曲をされて器楽部の楽譜に使われており、それが編曲に興味を持ったきっかけで、「やりたい曲を、編曲をすることにより自分たちの編成で演奏できる」という魅力にひかれました。

 小学校最後の6年生の年に、文化祭での学年合唱の指揮をやり、卒業式後の謝恩会で、未熟ながら自分が編曲した曲をクラスで演奏発表し、その指揮者をしました。

 中学校に入り、吹奏楽部に入部しました。楽器はいろいろ吹いてみて、トロンボーンになりました。中学校の吹奏楽部で私が驚いたことは、「パート譜」という楽譜で、小学校の頃のリード合奏ではスコア(使われる全部の楽器が書いてある楽譜)を先生が印刷して配って演奏していたので、パート別に書かれており、すぐに演奏できる譜面があることをここで知りました。
 私が中学校の頃の吹奏楽部は、入学した年は小さな弱小吹奏楽部で、音楽交歓会にも出場できず、生徒からは非難の目で見られていました。そのときは「部だけはつぶすな」と言われていました。
 2年になって、学校として「吹奏楽部の充実」を目標に掲げ、楽器を増やし、音大出身の顧問の先生を迎え、多くの新1年生から入部してもらい、ようやくこの年から音楽交歓会に出場できました。「来年はコンクールへ」と目標を立てており、3年の年に初めてコンクールのBの部(35人以内、自由曲のみ演奏)に出場しました。むろん銅賞を覚悟で出場したのですが、なぜか銀賞になり、部員みんなで喜びました。

 中学校の頃、全校募集で生徒たちにより「生徒会歌」を作ろうということになり、当時の生徒会長の作詞と、私の作曲が採用になりました。この作曲が、公の作曲では私の初めての作品でした。この頃から未熟ながら作曲・編曲を少しずつやるようになり、部内でも少し作曲・編曲をやっていました。

 高校の頃は、地元で一番大きな高校に進学したので、大きな良い吹奏楽部でした。コンクールも毎年Aの部(課題曲演奏部門)に出場しており、演奏会も年2回開催しています。演奏会で私の編曲を演奏したり、卒業式の記念演奏で私の作曲を演奏したりしました。

 高校卒業後、都心の専修学校に横浜の学生寮から2年間進学しました。この頃は音楽活動はやっておらず、東京在住のいとことリコーダーアンサンブルをやったりしていました。

 専修学校卒業後、地元の会社にUターン就職し、しばらく音楽活動はしていなかったのですが、私のいとこが「十日町市民吹奏楽団」という地元のアマチュア吹奏楽団に入っており、誘われて昭和62年に入団しました。
 昭和63年に、十日町市民吹奏楽団の前進である消防音楽隊の行事の「新潟県消防大会」が十日町市で開催となり、そこで地元にちなんだ曲をという要望があり、私が「十日町小唄行進曲」の編曲を当時の団長から頼まれ、大会の行進に使われました。以来、必要に応じて団内で作曲・編曲をしてきました。毎年2回演奏会を開催しており、演奏会で私の作曲を演奏いただいたりもしました。

 平成元年に十日町市民吹奏楽団設立15周年記念の定期演奏会が開催され、そこで私が作曲の行進曲「希望の光」が演奏されました。「この曲を吹奏楽コンクール課題曲に応募してみては・・・」という声が団内からありましたので、翌年の平成2年にこの曲を全日本吹奏楽コンクール課題曲作曲公募に応募したところ、なぜか当時の1次審査のコンデンス・スコア(フル・スコアを集結したような譜面で、ピアノ譜のようなもの)が通過になりました。以来、課題曲作曲公募には毎年応募を続けており、平成2・3・4・6年度に当時の1次審査が通過になりました。

 十日町市民吹奏楽団は、吹奏楽コンクールに毎年出場しており、私が所属していた頃は、平成元年の当時の関東大会(現・西関東大会)出場を皮切りに、何回か関東大会まで進みました。

 平成3年から、新潟県リコーダーコンテストに独奏で出場しており、平成5年に、十日町市民吹奏楽団の音楽仲間から、新潟県リコーダー教育研究会主催のリコーダーの合宿(夏季研修会)に誘われ、以来毎年参加しています。初めての合宿の中で新潟県リコーダー教育研究会に入会しました。

 平成7年に、以前ほかの方々で活動していた「十日町リコーダーアンサンブル」が復活したので私も入り、その年の新潟県リコーダーコンテストに私の独奏とともに出場し、金賞となり、全日本リコーダーコンテストでも金賞になりました。その年からは、毎年リコーダーコンテストで独奏と十日町リコーダーアンサンブル合奏の2つのステージに出場しています。

 この頃からリコーダー音楽への思いが強くなり、平成8年から十日町市民吹奏楽団は休団させていただき、平成10年をもって退団させていただき、現在はリコーダーを中心とした音楽活動をしていますが、吹奏楽コンクール課題曲作曲公募へは応募を続けており、吹奏楽経験者として、吹奏楽に対する情熱は決して衰えていません。

 平成13(2001)年に、吹奏楽コンクール課題曲作曲公募で初めてフル・スコア(吹奏楽で使われる全部の楽器が書いてある楽譜)の審査が通過になり、東京・普門館での6月の試奏審査会に参加でき、試奏の最終審査で「佳作」(課題曲として採用の、一歩手前)に入賞できました。これは私のようにアマチュアで作曲を独学でやってきた者としては大成果で、多くの音楽仲間の方々からお祝いのお言葉をいただき、応援に感謝しております。

 これからも、趣味として楽しく音楽活動をやっていきます。私が可能な作曲・編曲はお受けいたしますので、お気軽にBBSに書き込みまたはメール下さい。お待ちしております。







 新潟県十日町市・中魚沼郡の地方新聞「週報とおかまち」紙
H3.11.15の「今週の人」という欄に、次のように掲載されました。



−−− 楽器を使わず作曲 言語の障害を乗り越え −−−



 十日町市民吹奏楽団でトロンボーンの奏者として活躍している。ただそれだけではない。常に楽器を全く使わずに、作曲や編曲をやってのけてしまうという、特異な才能の持ち主だ。

 南中学校時代に生徒会歌に採用された曲も、近年になって市民吹奏楽団の仲間から要請されて編曲した「十日町小唄行進曲」も、まだ外に出ていない曲もたくさんある。みんな頭の中で作ったものである。

 昨年、全日本吹奏楽コンクール課題曲の公募に挑戦して作曲した行進曲「希望の光」が2次審査まで残った。この曲は心身にハンディを負う人に希望を持ってもらいたいという願いを込めて作られた曲で、市総合体育館で開かれた2市3郡福祉大会に市民吹奏楽団によって演奏されたから、聞き覚えのある人も多いかもしれない。

 児玉さん自身、小学校時代から言語障害のハンディを背負っている。音楽の道自体はリズム感を身につければ効果があるのではないかということから始めたものだが、ハンディを負う人への思いやりの心から作った曲は、優秀な結果となった。

 今年の全日本吹奏楽コンクール課題曲公募に応募した曲も、2次審査まで残った。市民吹奏楽団の第17回定期演奏会は、11月24日に市民会館で開かれるが、こんな人もいることをも思いながら聞くのもまた楽しい。


(注) 文中の記事は、全て掲載された平成3年当時の状況です。




ご質問等がありましたら、お気軽にBBSに書き込み または上記へメール下さい。